苅谷剛彦(2003)『なぜ教育論争は不毛なのか』中央公論新社
- 学識者と専門家は役割が違う:
- 努力の階層差:アメリカは能力主義、しかし能力が生得的なら時代で分布は大きく変わらないはず、時代の変化で階層差が出るのは努力のほうでは?
- 学力格差が階層差を伴っているのに、勉強したくない子はしなくていい、それも個性だといっていいのか
- 教育は国家の機能を良心的にコントロールできる市民を公教育を通じてどう育成するか
- 機械の不平等は後からしかわからない:ならどういう不平等ならみんな納得して受け入れられるかを決めないといけない=能力開発の機会の保障と自己責任のどこに線を引くか、ルールと情報が明確でルールづくりに誰でも参加できないといけない、社会の仕組みの知識は民主主義の基本
- 教育は資源再配分の方法の一つ
- 学力論争は学力をどうとらえるか=測定可能なものに限る
- 同調主義的共同体を残したまま市場化という方向で個人化が進む。学校の同調文化は変わりにくいのに、個人が大事というと個人が肥大化する
- 数学が高校レベルなのに英語が苦手なために中学を卒業できない政策をうけいれられるか?
- 教育行政に全てお任せは、自民党VS日教組のイデオロギー対立から教育の政治的中立性を確保するためにはじまった
- なぜ教科書検定が問題となるのか?教育は神聖、無垢な子供が使う教科書という教育の有効性、神聖性を信じるから
- 小5段階で学力だけでなく総合的学習への意欲でも差がでる
- 学力低下は平均だけでなく家庭的背景の格差を伴った拡大
- 旧来の学力=知識量だけでなく、新しい学力=自ら学び自ら考える学力も階層差がある
- 自己実現は高度な自律性wp備えた職業人=芸術家や知識人に固有の特徴、なのに全ての子供に求めていいのか?
- 個人=社会の1つのユニット、1人1票、職業人の単位
- 自己=文化的・社会的・心理的なもの、自分という存在の見方
- 本当の自分を正しさに根拠を置く教育が、成人後の自立した個人の形成に結びつくとは限らない
- 自分で考える力の教育方法は不明確:価値の教育に踏み込まないと教えられないのでは?