PDCAサイクルは合理的であるか
- 多くの大学人はPDCAサイクルを合理的であるとし、それに対する異議は愚痴にしかならないと考えるが、それは自明ではなく、実際に合理的・論理的な反論がある。
- 反論は、(1)人間の物象化に対する批判、(2)経営学的な無理解に対する批判、(3)トップダウンであることに対する批判の3つに整理できる。
- PDCAサイクルは、ズレを契機とする相互生成の可能性を抹殺する(人は能動的・主体的に反応するので、当初の目標と食い違うことが起こる)。
- 教育の失敗は当期の学生に向けられない問題。
- それが合理的としてもk、来期の学生も個別的で変化する。(生産と教育は違う。)
- デミングのPDSAでは、点検ではなく研究とされている。目標と結果の差異を研究し、学んだことを積極的に生かして次の計画を立てる(差異を排除するのではない)。
- 本来のPDCAの真意は協力と協調のボトムアップにも関わらず、政策や大学評価ではトップダウンと誤読している。
- Pは目標と計画の両方の意味で使われるが、サイクルになるには目標は更新されないといけない(いかに目標を達成するかという計画(Plan)を指すもの)。しかし、実際は目標はトップからの所与であり、計画・実行(Do)だけがサイクルで更新されていく構造になっている。
- PDCAサイクルは、あらゆる偶然性を排除することで、限りなく必然性を追求するシステムである。それが大学という現実を改善できるわけがない。
- 2006教育基本法改正:大学の使命に教育研究に加え、教育研究の成果の提供による社会貢献が明文化。
- MEXT:産学連携推進が大学文化を変えていない→管理志向を強める政策(公募プログラムで人文社会科学の参画や、学部自治の変革を求める)。
- 産業界:大学の企業化を求める背景に、米国が中央研究所モデルからオープンイノベーションに急速に移行したのに、日本はバブル期の企業での基礎研究モデル(基礎から開発ま自社でやるリニアモデル)から抜け出せないことがある。
- 大学:研究者評価で、研究費獲得が重視され、技術移転・社会実装志向が強まった。
- パスツール象限:社会課題解決・社会ニーズと基礎科学推進を同時に満たす研究 ← シナリオ上の話で実際には大学と企業の間に大きな壁がある。
- 研究成果の公開の扱いの違い
- 研究成果を評価する時間感覚の違い
- これまでの産学連携=大学の企業化で企業と大学の差異を解消しようとしてきた。← 大きな壁の無視がかえって連携を困難にしている。→ 大学の尺度で捉え直すべき。
- 設置基準大綱化:各大学が特色を生かして自主的に教育課程をつくる ← MEXTの補助金交付で形骸化されていく。
- 行政指導:法令や指示命令と異なる方法で要請を行う方法。
- 補助金:(1)法律補助(根拠となる法令がある),(2)予算補助(それ以外)
- 高等教育振興費はすべて予算補助
- 教育行政学:教員の専門性に依拠して教育を行うことに関心(教育行政を一般行政と切り離し,政治の思いつきの提案の影響を小さくする)
- 外的事項(財政・教員配置・開講日などの学校の形)と内的事項(教育の内容・方法)を分けることが重要。← 内的事項は教員に任せる。
- 補助金は内的事項に踏み込んでいる ⇔ 政府と大学が利害を共にしている(減額された運営費交付金を補うために取り組む)
- ただし,政府と教員が利害を共にすることは少ない。
- 内的・外的の区分は概念としてわかりやすいが,実際に教育に関することをそれで区分するにはあまりにもあいまい。
- ハイパーメリトクラシー化:ポスト近代型能力(対人・コミュ力など)の社会的重要性が無視できないほど増し,能力の多元化が進行すること。← 専門性で逃がす・かわす(専門性を身につけていればその範囲で要求に応えればよく,あらゆることに意欲的・創造的でなくてもよい)。
- ハイパーメリトクラシーか専門性か:対立するように見えて,パフォーマンス信仰という点で同根。
- 産業界がなぜ博士人材に価値を見いださないか:修士である程度の研究経験があるなら,博士まで必要ないと考えている。
- 日本は人口あたりの研究者は多い=博士を持たない民間研究者が多い。
- 大学院が学部の延長にあるかアメリカのように切り離されているかが曖昧なままコースワークの実質化が図られ,研究活動の鈍化が起こっている。
- 研究活動を通じた教育の実質化ができていないため,学位取得の基準が明確でなく,(研究が中心の博士課程の)人材育成目標が不明確。(とはいえ,それは困難)。
- PROGのジェネリックスキル論
- 知識を活用して問題解決する力のリテラシー,経験を積むことで身につく行動特性のコンピテンシーの2つの測定。