2011/08/01

久保田哲夫(2011)「サラダ・ボウルとしての大学 ―大学における多様性の意味を考える―」『関西学院大学高等教育研究』

  • 結局,大学改革は,リーダーが誰もが共感できる目標を設定し,それを実現する能力を持った者にそれを担わせることでしかなしえない。
  • 改革が成功するか否かは,第一にリーダーが適切な目標を設定できるだけの現状理解を持っているか,第二に人を見る目を持っているか否かに帰着する。
  • 問題は,誰もが共感できる目標とは何かということである。現在の大学の危機的状況から見て、その共通の目標は明らかであると考える人々から見れば,多くの大学の教職員の意識が低すぎるように見えるかもしれない。そのような先入観で見れば,改革の反対する大学教職員が,ただ既得権を守ることに汲々としているだけのように感じられるであろう。
  • しかし,危機を誰よりも強く認識している教職員が改革案に反対するとすれば,その理由は(1)改革案が適切でない,(2)改革案がもたらす結果が一部の教職員に極端に不公平な負担を強いる,(3)改革案を提示した人々を信頼できず,教職員の負担のみが増大し,改革の成果が確信できないのいずれか。
  • 教育の目標に関しては2つの系譜があり,1つは神学部や法学部など,教育の目標が聖職者や役人等の育成というはっきりした達成基準が設定できる学部と,貴族の子弟の教育のように、見聞を広めるための教養教育であり,もともとどこまで何が出来れば教育として成功かという基準のない学問を中心とする学部。
  • 後者のタイプの教育に携わってきた者にとっては,シラバスを設定し,講義の達成目標を設定し,講義時間を2時間15週で2単位と決め,124単位履修すれば学位が与えられるというシステムそのものに違和感がある。
  • もともと彼らは教養というものが講義で与えられるようなものとは信じていない。講義は単なる刺激にすぎず、そのような講義で関心を持ったテーマについて自分で研究してゆくしかないと思っていれば,講義は体系性など必要でなく,どれだけの知識を与えたかではなく,どれだけ学生の関心を引き出したかで評価される。
  • ディシプリンは,学問の世界でその分野で必ず身につけなければならない基礎知識や基礎技術を意味する。その意味で,専門家を育てる教育において,ディシプリンの習得は必須条件である。
面白い主張だが,学生の視点や社会の視点がない,内輪の独善論にとどまる点が残念。