2017/11/30

榊原禎宏・森脇正博・西村府子(2013)「教師はなぜ授業中の挙手を好むのか」『京都教育大学教育実践研究紀要』13,223-232


  • 教員が懸命に教えてもどのように生徒が学習するかは不明確なのに、生徒の学習を第一義にすればどんな働きかけが有意かは曖昧である。
    • 「学び」という表現は柔らかなイメージを滑り込ませ、生徒が何をどのように学習するかを追求しない点でずるい表現。
  • 教育と学習との関係を実証できず、直観以上のものになりえないために、教育実践では目標の手段化がしばしば生じる。(=教育活動の制度化・硬直化)。
  • 挙手
    • 挙手は、授業に対する意欲や理解の表れと教師から一方的に定義され、いつどのように挙手を求めるかは専ら教師の判断に拠る。挙手の仕方も各教師の「マイ・ルール」にもとづきやすく、これから外れる子どもは否定的なラベリングをされやすい。
    • 教師は子どもに手を挙げさせ、誰を当てるかを決める権限を行使することで、大きな自尊感や満足を得ることができる。
    • 挙手は、子どもの人間関係も投影している。クラスで「浮く」ことを心配する生徒は、挙手したいけれどできないというアンビバレントに苦しむことになる。
    • 挙手は、教師の知っていることを答えさせるカテキズム(宗教的問答)の様相を呈する。これは、「自ら学ぶ」人間の育成には逆行する形式陶冶である。
学術研究ではなくエッセイであることが残念。