2014/03/04

丸山真男(1961)『日本の思想』岩波新書


  • 人間は,イメージを頼りにして物事を理解する。しかし,われわれを取り巻く環境は複雑・多様・世界的な広がりを持ち,感覚的に確かめることができないものや現物と比較できないイメージを頼りに行動・発言せざるを得なくなっている。これが続くと,もとの現実と離れて独自のイメージ(化けもの)ができてしまう。やがて,自分のイメージに自分の言動を合わせるという自己疎外が起こる(マルクスが,私はマルクス主義者ではないと言った)。
  • 日本がヨーロッパの学問を受け入れたときは,学問の専門化・個別化がはっきりした段階で移植されたため,専門化された学科がはじめからアカデミックな学問の存在形態とされた。これは,研究者が共通のインテリジェンスで結ばれていない,掘り下げても共通の根にぶつからないタコツボになっている。
  • 自然科学者と社会科学者の間に,本質的に同じ仕事をやり,同じ任務を持っているという連帯意識が乏しい。日本では哲学さえ,自身がタコツボ化した。
  • ヨーロッパでは機能集団の分化が起こっても,別の次元で人間をつなぐ伝統的な集団や組織(教会,クラブ,サロン)が伝統的に大きな力を持っていて,異なる職能に従事する人々を横断的に結びつけるコミュニケーション経路になっている。
  • 組織を強くしなければいけないという考えがタコツボ社会に適用されると,組織の中で通用している言葉が,組織の外でどれだけ通用するかということについての反省が欠けがちになり,組織内で通用している言葉の組織外での有効性を試す努力が忘れられ,組織対組織外,組織外の人が真理に到達していないという問題に帰着させられる。
  • 組織内の言葉の沈殿を打破して自主的なコミュニケーションの幅を広げていくかというのが,これからの社会科学の当面する問題。
  • 徳川時代は,何をするかではなく,なんであるかが価値判断の重要な基準であった。コミュニケーションが成り立つには,相手が何者であるか外部的に識別されることが第一の要件。逆に,これはアカの他人のモラルは発達する必要がない。パブリックな道徳は,アカの他人同士の道徳だが,儒教の五倫(君臣,父子,夫婦,兄弟,朋友)のうち4つは上下関係,朋友だけが横関係。この友人関係を超えた他人との横関係は,儒教の人倫に入らない。儒教道徳は「である」モラル。
  • である思考とらしく道徳の社会では,はたらきが特定の集団の区分からできてくるように考えられる。すると,政治活動は職業政治家団体(政界)の専有物とされ,政治家以外の人によって行われる政治活動は,本来の分限をこえた行動・暴力のようにみなされる。民主主義は,もともと政治を特定身分の独占から広く市民に開放する運動として発達したものだが。
  • 日本の急激な近代化は,する価値の浸透の一方で,強靱にである価値が根を張り,する原理を建前とする組織がである社会のモラルでセメント化されている。伝統的な身分は崩壊したのに,自発的な集団形成とコミュニケーションの発達が妨げられる(=会議と討論の社会的基礎が成熟しない)と,近代的組織や制度は閉鎖的な部落を形成し,さまざまな内的集団に関係しながら,場所柄に応じて振る舞いを使い分けなければならなくなる。