諏訪哲二(2009)「間違いだらけの教育論」光文社新書
- 教育には根源的な暴力性があり、ヘレンとサリヴァン先生の教える・学ぶコンテクストは、ヘレンが屈服させられた時に成立した。教育的なコンテクストの初発は支配・服従である。
- 途上国には学校へ行きたくても行けない子供がいるが、日本では学校へ行けるのに行きたがらない子供が増えているのは、日本の子供がヘレン的な状態に幽閉されているため。すなわち、外部との関係の付け方、自己認識のありようがヘレンと同室の構造を持っている。外部に屈服していないから、全能感的な自己感覚の支配下にある。
- 啓蒙としての教育と文化としての教育を混同してはいけない。文化としての教育では、啓蒙としての教育を経た学習者がそこにいる。しかし、啓蒙としての教育を語らずに、文化としての教育から初めてはいけない。しかも、文化としての教育は、商取引としての教育こそ教育本来の形という意味で、師弟の権威的な上下関係はありえない(齋藤批判)。
- 人が学習者になるには、子供としての人を近代的個人としての人に校正するための教育が必要。それが、ルール・マナーなどの啓蒙教育。啓蒙教育は贈与(上下)の教育で、文化としての教育は交換(対等)である。80年代以降、日本の啓蒙教育がゆるんだ背景に、人権という観点から現実の教育を切り取ろうとしたため。啓蒙よりも人権を優先させたため、リベラルは近代と対立した。
- 教育基本法の教育の目的では、最初に人格の完成が謳われ、後段に近代的個人(国民)の育成がある。
- 教育論議では、先生は偉いが必須で、教師のためにではなく、生徒のために必要。生徒側に自分は正しいという信念は学習の阻害になり得る。啓蒙としての教育を担うのが先生であり、心理としての教育に現れるのは師である。これを混同してはいけない(内田批判)。
- 教師は自己の体験を基にしつつ教師になるが、自己を絶対化してモデル化することは避けなければならない。自己の体験を越えた複雑で複合的なイメージをいくつも内面化していなければならない(義家批判)。
- 教育の語り方で最も注意すべきは、正しい教育理念を語る人。その前提に、人間とは何かがわかっている構造になっているため。しかしそれは可能か。
- 教師は新しい者への準備は身構えがない。昨年と同じと言えばたいていのものは通る。教師たちは上からのものは敬遠したり忌避したりするが、反対はしない。
- 教師の外形的ありようではなく、内面に踏み込む、すなわち、同じ教師間を持てという考えは、経営的と言うよりは宗教的なリーダーシップのありよう。生き方や倫理に関わることは、教師がどんどん提示してもよいが、相手の主体性に任せるべき(渡邉批判)。
- 夢学園では、対等の教育者としての立場と、部下の経営者としての立場の混同が問題。精神的な奴隷は教師になれない。