2013/07/29

苅谷剛彦(2012)『イギリスの大学・ニッポンの大学』中公新書ラクレ


  • ワールドクラスの大学を標榜することは,「世界の問題」と知的に格闘すること,すなわち,戦火のやまない国の学生が宗教的民族的対立の根源を知りたい,経済成長著しい国の学生が急速な変化をもたらす社会の矛盾を考えたい,欧米トップの学生が著名教授の推薦状付きで原著論文と共に来るという,世界の問題の縮図が大学の教育・研究の素地・資源となっていること。
  • 大学では,何を勉強しているかを聞く際に,What do you studyといわず,What are you readingと聞く。学ぶことの中心に読むことがあり,何を読んで知識や教養を身につけたかが共通の理解として類推でき,そうした時間の積み重ねが教育の中核を占めている。
  • 専門外の試験の採点に関われるのは,特に文系において,読むべき文献や学生が身につける知識や能力について,大学として共通の了解が成立しており,書くことで表現された思考の痕跡を思考力として評価することを重視するため。どの専門でも,どれだけ明晰に問いが立てられ,論理的に思考を展開したか,どれだけ説得的な文章で書かれているかを判断できるため。
  • 日本で学ぶ知識は教授が伝授する知識であり,その受容とは体系的に知識を理解し,再現することを意味するため,毎回の授業で何を伝達するかを示すシラバスが重視され,15回行われたかという回数のチェックが重視される。オックスフォードでは,知識の伝授は課題文献で行われ,その知識を用いて書く学習が続き,議論を通じて知識の生産・再生産を行う。そのためチュートリアルが中心となる。
  • 高等教育とは,生涯にわたる学習やキャリアの再生を人々に準備するものであり,生涯を通じて社会に対しan educated citizenとして貢献するための準備を与えるものである。高等教育とは,批判的な思考をリベラルな教育を通して発達させることであり,そのような科目を通じてであれ個人のコミュニケーションと批判の能力を発展させることである。そこでの特徴は,いずれ時代遅れとなる知識を常にアップデートする方法を学ぶ能力を身につけることである。高等教育がキャリアにつながるという意味は,プロフェッションの世界において省察力を持った実践かを育てることにある。
  • 日本ではエリート主義の問題を正面から論じず,それを避けながら,市民社会を市民について考える傾向があるが(市民や市民社会は,自立した個人が対等な関係を通じて織りなす自由な社会というイメージ),オックスフォードでは選ばれた学生に特別な教育を提供して教育された市民を育てることにためらいがない。
  • 面接では,日本のように漠然と人物を見るのではなく,ちょっと意地悪な質問にも,頭の回転,論理的思考力,柔軟な発想力,言語による表現力を確かめるものとなる。
  • 顔の見えない大衆教育社会では,教育された市民を十分に育成できない。特権的な環境を誰に提供するかという資源配分問題に手を付けずに,○○力の育成の問題を論じても,教育された市民の育成の道筋は見えない。
  • 大学は,社会的な上昇移動の主たる手段であるから,その機会を狭めることはフェアでない。日本は,フェアネスの問題よりも,大学教育が親からの贈与である点が大きい。授業料や財政支援の仕組みは,この問題に切り込まないと,受益者負担やフェアネスに関する議論は深まらない。
  • 日本ではカリキュラムの体系化はしにくい。週1回であること,実質3年で単位を取ること,大人数講義が多いこと,授業料依存度が高く退学者を出せないことから,学生は学習を要しない生活を送る。これは,採用側も訓練のしやすさを示すシグナルだけを求めていたことも影響する。つまり,日本社会にとっての大学は体験学習の機会であり,基礎知識は高校までに習得して,大学では課外活動,ボランティア,アルバイト,海外旅行を通じて高校まででは得られない体験を積む場である。
  • オックスフォードでは,大学は学問の場である。それは,グローバルな競争環境の下で学生が出願するのみならず,教員もグローバルな競争環境に置かれ,学生に自由な時間を与える体験学習の場といったことが許されない環境にあるためである。
  • チュートリアルは,文献の読み方,文章の書き方,議論の仕方をしつける過程そのものであり,知識の理解に加えて知識をどう組み替えるかという議論の方法=技・アーツが教えられる。そのため,担当する教授は知の再生産と生産に関わる研究者出なければならない。すなわち,既存の知を伝えるだけでなく,既存の知を用いていかに新たな知を作り出すのかを自ら体験し,再現できる学者がチューターとなれる。
  • 日本は顔を持った個人と対面して一緒に働き,仕事の出来具体を自分の目で判断する対面文化を育ててこなかった。人間の判断力を信用せずに危険視した。しかし,国際社会は顔を持った個人として相手に印象づけられるかどうかで決まるコネ社会である。