2008/05/22

阿部謹也(1999)『大学論』日本エディータースクール出版部

本書は、阿部氏の考える大学とはと、教養とはをまとめた文献である。99年に出ているが初出のある原稿をまとめたもので、同じ話の繰り返しの部分がほとんどだが、一貫した持論を展開している。
本書では、至る所で教養とは知識ではなく、生き方であると述べている。

  • 日本の大学は文系・理系という分け方をやめるべき。もともと明治政府が総合大学の中で工学部を主として、大学におけるリベラルアーツを無視した失策であり、今からでも反省すべき。
  • 教養とは、それぞれの持ち場においてその持ち場を誠実に生きようとしている人々の生き方の問題。
  • 教養がある人とは、仕事でおかしい・間違っているという重大な問題に、周囲の人とどんなに対立してもその主張をし、いかに生きるべきかの選択を日々している人。
  • 教養を身につけるとは、他人の生き方も認める・理解できるようにすること。個人が目標とする中で専門を深めながら身につける。専門科目は、知恵がなくともできる。
  • 日本は帝国大学を作る中でベルリン大学の理念を受け継いだが、欧州の大学にない工学部を作った。
  • 具体相を離れて天下国家を論じ、実務と実益から離れて経済・産業・法律を論じている人たちによって担われた国家は、危うい選択をする(ナチス)。
  • 問題は一般教育にあるというよりは、一般教育の教員の採用人事に問題があり、研究評価だけで教員を採用したため。
  • 大学は超俗的機関ではなく、世俗社会の中にありながら、世俗社会の論理に翻弄されることなく、我が国の将来のあり方を見据える所。大学の主体性とは、世俗社会に対しての主体性。
  • 大学人の喜びは、教育と研究。大学人の給与は一般社会の平均給与よりも上であってはならない。世俗の事情に疎い大学人は大学の使命を達成することができない。
  • 何かを成し遂げなければならないとき、悲壮な使命感に駆られて当たっても成功しない。全体として身体が自然にその方向へ動くようにしなければならず、そのためには練習が必要。日々の勉強を重ねることでアイディアが浮かび、普段の自然な緊張感こそが成果をあげる前提。

2008/05/20

岩下修(1989)『AさせたいならBと言え』明治図書

本書は、小学校教諭による発問と指示に関する実践事例集である。
Aをさせたいとき、Aしろと言っては何もできない。Aは概して目標であることが多いから。これを具体的な行動Bとして変換できるか否かに、教師の力量がある。静かにしなさい、ではなく、雨の音が聞こえますか、である。

教師の言葉のまずさは、教師が自分自身の内容を持っていないからであり、教材認識が確かでないからだ。教師の発言は、子どもを発見的認識に導くためにある。

子どもを動かす言葉作りの原則は、物、人、場所、数、音、色を含めること。共通の知覚体験をしたものであればゆれのない共通のイメージを喚起できる。
特に子どもは小さな特異点に注意が向く。へそ、つめ、など。

示される事例は小学生を対象としているのは当然だが、この原則は大人の世界でも通じるだろう。思考をせずに行動する大人が多くなった中で、考えて行動させ、知的な表情を引き出す工夫をすべきだ。

以下、メモ。ゴシゴシ洗う音、シャボン玉をふくらますように、腕で板を作る、あの教室の中に何がある、親書には何が書いてあった、ゴミを10個、爪を見なさい、先生の外を周りなさい、一番よかった場所、1ページに10個、音がしないように着地。

2008/05/05

杉山幸丸(2004)『崖っぷち弱小大学物語』中公新書クラレ

本書は、小規模大学学部長による随筆だが、同意できる部分が多く励まされる内容であった。論理的、科学的な文章ではないが、勢いがあり読み物としておもしろい。
  • かなり多くの学生が免許や資格に直結するような、就職が有利になるような、就職したら直接役立つような実学だけを大学における学問として頭に描いているようだ。高い授業料を払いながら改めて専門学校に入り直す行動でわかる。
  • 多くの学生が望んでいるのは座っているだけで自然に頭の中に入ってくるような教育なのだろう。
  • 弱小大学では意欲的な小中学校の先生が試みていることを全てやって、その上大学らしい教育ができたとき初めて大学教授としての誇りを持ってもよい。大学教員は個性を発揮することが推奨されている存在だが、それは互いの考えを理解し合い、基本線が合意されなければ、ばらばらな教育が行われるだけ。
  • 学生は教員の鏡であり、教員は学生の鏡である。教員が態度を正しながら自分と学生を磨く覚悟がないなら、教員不適格者である。
  • 教育は教授法が全てでなく、最新の研究成果に基づく最新の知識をわかりやすく、学生の身近な問題、学生の将来を豊かにする問題として伝えられなければ、教育に対する信頼は得られない。経営者は教員に十分な勉強時間を与えなければならない。教員が自分の研究成果の意味、評価、分野全体の中での位置づけを教育の中に生かせてこと、教員に対する学生の信頼度が増す。
  • 大学が自分たちをどんな風に見て、どんなふうに扱っているか、ぐうたらに見える学生は怖いほどクールに見ている。学生は人生をそれなりに考えている。大学上層部は子供や物品を扱うように学生を管理する見方をしてはならない。
  • 先生は何が楽しくて遅くまで研究室に張り付いて、時に休日まで費やし、そんな役に立ちそうもないことに情熱を燃やしているのか。それを学生に伝えることが大事。
  • 先生と言われたときから言う人と同じ地平に立つことは難しい。少し余計に我慢し、弱者の立場に立つことこそが重要。学生と同じ地平に立っても先生でいられることが大事。同じ平面で勝負し、学生より多く努力しなければ勝てるはずがない。駐車場は必要度の高さで決めればよい。
  • 長になったら自腹を切ってでも自分に批判的な人材を身近に配置しおくべき。高みに上がるほど、下からの声が届きにくくなる。下からの批判が聞こえたらほんとうはその数倍あると思えばよい。
  • 学長は社会の中で信頼に足る実勢をあげた人物でなければならない。弱小大学だからこそ、第一級の業績と力を持った人物を頂点に据えるべき。学生は学長が誰だって関係ないと思いながら、本当は誇りにできる学長を欲しがっている。胸を張って他人に名乗れる大学であり、学長であってほしいのだ。
  • 長は自分お考えを抑えてでも下の意見を採り上げなければならない。自分の意見を述べるときは十分にかみくだいて説明し、理解してもらわなければならない。
  • 自分の研究をどんな相手にでもわかってもらえるように説明できなければ、自分の研究を十分に理解していないことである。30分と言われれば30分で、3分と言われれば3分で説明しなければならない。
  • 著名人が、学生時代ろくに授業に出なかったがその後の人生で何も困らなかったなどと、嘘をつくのはやめてもらいたい。その人だって、学校を足場に何かに集中していたはず。それでも単位をとって卒業した秀才の部類。誰でもそれで成功するような惑わし方をしないてほしい。
  • 学校教育とは、普通の人間が普通の社会で人生を送れるような、普通の若者が元気を出せる教育であり、普通の若者が社会のルールを守り、調和を保って生きられるような常識ある人間を育て、普通人がささやかな反撃をする機会をつくるものである。