- 今人々が渇望しているのは、新しい能力を求めなければならないという議論それ自体。
- 現代社会に多く見られる能力論議は、これからの時代に必要な新しい能力を先取りし、それを今後求めていく言説の集まりである。この議論のパターンこそが現代社会の1つの特性。
- 学力だけではダメで人間力も必要だという考えは、100年前からある。
- 60年代:ガリ勉はダメの価値観
- 1930:三菱の採用は人物本位
- 全体として能力観が転換しているとの根拠ない前提の上で、必要な新しい能力をひねり出した結果、最大公約数的な陳腐な能力をあたかも新しいかのように看板だけ変えることを繰り返してきた。
- 5つの命題
- いかなる抽象的能力も、厳密には測定することができない(何らかの形で「能力」を割り切って定義づけ、測定した形にしなければならない。)
- 地位達成や教育選抜において問題化する能力は社会的に構成される(能力の社会構成説)
- メリトクラシーは反省的に常に問い直され、批判される性質をはじめから持っている(メリトクラシーの再帰性)
- 後期近代ではメリトクラシーの再帰性はこれまで以上に高まる
- 現代社会における「新しい能力」をめぐる論議は、メリトクラシーの再帰性の高まりを示す現象である
- コミュニケーションは関係性において本来現れるのに、それを個人に内在する能力として位置づけることに無理がある(関係性の個人化)。
- コミュニケーション能力を選抜基準とすると、恣意的な選抜を正当化するロジックとして使える。
- 科目間の素点を合計することは、設問や教科ごとのテストの能力識別力の違いを無視することなのに、なぜかみんな納得している。
- 100m走でさえ、能力を正確に計ることは難しい。
- 試験や学歴は、禁断社会への転換において代表的であり、偏見や思い込みによる不合理なシステムではない。一方で、人の能力を正確・説得的に表現できず、一定程度の機能にとどまる。この暫定的な機能が、人々の生活を歪めることがあり、不合理な側面も持つ。
- 機能主義の社会学:メリトクラシー進展論:技術の発展で求められる教育水準が上がり、それに応じて教育が拡大する。
- メリトクラシー幻想論:メリトクラシーは階級差別を隠蔽するイデオロギー(IQテスト結果をコントロールしても、階級と所得の関連は残存する)。
- ただしこれらは、メリトクラシー論のステレオタイプ。前者は、能力を抽象的に捉えがち。後者も、常に理想的なメリトクラシーと現実を比較して同じ論調になりがち。
- →能力の社会的構成説。
- 学歴が能力指標として重視される条件:(1)獲得過程が広く開かれている、(2)獲得プロセスが、測定手続きとして社会的に説得的であること(全国一斉試験など)。
- 試験の日本的風土:(1)年1回、同一問題、一斉実施、(2)新作問題のみ、(3)問題公開、(4)大問形式、(5)問題作成とテスト編集の融合、(6)素点・配点の利用。→ IRTに合わない。
- メリトクラシーは決してゴールに到達しない:抽象的能力に対する判断は、常に多様な基準を包含しうるため、暫定的なものにとどまり続けるため。メリトクラシーは事あるごとに反省的に振り返って多様な基準から問い直される性質をはじめから持っている。
- 一方で、ある程度の水準に抑え込む装置も同時に作動させることで、常に批判されながらも先鋭化しすぎて社会システムがうまく回らなくなることも避けている。
- 日本と韓国の教育アスピレーション(希望する教育程度)の違い
- 韓国:どの階層も高い位置から後に差が開く
- 日本:はじめから階層別に差があり維持される
- 再帰性:自らのあり方や行いを事後的に振り返って問い直す性質。反省性、内省性。個人的でなく、システム・制度・国家も主体になりえる。
- 行為をベースに社会を読み解く社会学:他者に向けられた行為(=社会的行為⇔生理的・反射的行為)は、行為した本人にとって意味があるはず。
- 経済学=行為の意味を経済合理的行為に一元化、心理学=それを心理現象として解釈。
- ウエーバーは行為者が自らの行為に対して主観的に意味を付与するととらえている。しかし、それは行為の解釈としては正しくないという。すなわち、「われわれは行為そのものに没頭しているのであるから、生きられつつある行為にわれわれが意味を付与すると考えるのは、誤り」であり、「体験にたいする意味の付与とは、行為者か他者がその行為を反照的(原語ではreflexive)にみることを意味するのであって、過ぎ去ったおこないにのみ過去を振り返りながら適用していくことができる、そうした類のもの」なのである。
- 近代社会=行為の意味の問い直しをせざるを得ない時代。伝統や価値観で押さえられていた不安がむき出しになる(⇔伝統があれば初詣に行くべきかを激論しない)。
- →行為の再帰的モニタリングが激しくなるのが近代社会。
- →近代は、人間が十分にコントロールできない変動(=暴走)を特質とした社会。
- 制度的再帰性:社会活動および自然との物質的関係の大半の側面が、新たな情報や知識に照らして継続的に修正を受けやすい
- 徹底した再帰性:専門家から提供される専門的知識そのものも再帰的まなざしにさらされる。
- 一般的再帰性:時代を問わずどこにでもあり得るものとしての再帰性。
- 自己の再帰性:自己アイデンティティの日常的な更新を余儀なくされる個人に注目した再帰性(能力とアイデンティティの問題)。
- 制度的再帰性:専門的な手続きを経て生み出された選抜機構が修正を受け続ける。
- 能力不安の時代。高等教育が大衆化すると、高学歴者=能力ありが修正される。高学歴化がメリトクラシーの再帰性を高め、大卒が大卒を否定する社会が生まれる。
- 大学名による採用差別は、潜在化・巧妙化した。露骨な差別を再帰的問い直しのふるいにかけることが前提となる社会になったため、学歴だけではダメというロジックを前面に押し出したシステムを作らざるを得なくなっている。→新しい能力論の台頭。
再帰的メリトクラシーの理論
- 前近代=無学校の時代、前期近代=学校の時代、後期近代=学校批判の時代
- メリトクラシーの再帰性を作動させる社会的変化:教育拡大と情報化
- ポストモダン=時代的転換を強調(大きな物語の終焉)⇔後期近代=終焉ではなく本来合った再帰性の露呈化を描き、現状はモダンの延長線上で理解される。
- こうした議論は進まないだろう=社会学のみならず学問の世界において構成主義的な、あるいは相対主義的なものの見方が普及してずいぶんと日が経っているにもかかわらず、依然として「能力」というものの実在性・絶対性を大前提においた能力論が圧倒的な主流にあるからである。
- キーコンピテンシー:成果を上げる人たちに共通する行動特性(ただし、成果を上げる文脈が重要な意味を持つ概念)← 3×3のコンピテンシー
- これをテストで測定:文脈を捨象すると、抽象的能力そのものになり、陳腐で測定しにくいものになる。
- →そのそもキーコンピテンシーが、先端的な能力と言えない。新時代に必要な新しい能力を発見していない。
- 非認知的能力:心理学では幅広く曖昧な概念であり、能力と言えないものを含む概念=抽象的能力。
- 古い能力を批判し、新しい能力を唱えることで一時の心の平穏を得ることができる。
