- 意思決定に多くの人が参加すると,モデル1が多数派となり,学習体系はより複雑化する。
- 意思決定プロセスへの大衆参加は,その問題解決力と合わせて考えるべきである。そのような能力は,立場や属性ではなく,心の中にどのような前提を抱いているかと大きく関係している。
- 学習を改めるには,ワークショップやセミナーの活用がある。オープンな問題解決の議論が行われることがあるが,通常業務に戻ると同じアプローチが採用されない。人間は,モデル2を理解したり信奉したりしても,行動を実践できるとは限らない。
2013/12/26
クリス・アージリス(2007)「「ダブル・ループ学習」とは何か」『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』2007年4月号,ダイヤモンド社
2013/12/04
小玉重夫(2013)『学力幻想』ちくま新書
- アメリカで一定数以上の教員が必要となるのは,学級のためではなく,子どものためであり,この子ども中心の考え方があるため指導法やカリキュラムも個別的なものとなる。日本は,標準法に示されるような学級をベースとする教育になり,全国一律の学級と全国一律の教育が平等に保障される。
- ゆとり教育は,具体的には総合的な学習の時間の導入であり,それは,学習指導要領における法的な拘束力の部分的な解除である。またそれは,教科横断的で従来の教科の系統的学習へのアンチテーゼである。
- 教師の指導性が弱くなると,階層的なものの影響が大きくなり格差が広がる。学校の中で授業が完結しないと,学習をサポートする親か否かで差が出てしまう。
- ○○力メタファは,学力の定義を曖昧にしたままそれを全人格的な人間性へ拡張する。これは,努力と工夫次第で誰でも身につけられるものととらえられ,○○力が身に付かないのは個人の努力不足となってしまう。
- みんながイチローにはなれないが,みんながエネルギー問題や放射線の問題を考えることは身につけたい。公教育の役割はその中に見いだされる。
- 問題なのは子どもの学力低下ではなく,問題を子どもに転嫁し自らの学力低下を棚上げにする教師の問題である。子どもへの関心が肥大化すると教育における権威が喪失し,公的世界が解体してしまう。
- 学力の低下を教授法の革新によって解決する発想は,教育が解決困難な課題を抱え込んでしまう。学力問題が教育方法の問題に還元されると,教育の内容に対する関心が薄くなる。教師が身につけるべきは,特定の専門科目に習熟することである。
- 出生によってこの世に到来することは,すでに存在するものに遅れて参入することである。教育において,正解への責任は権威の形式をとるとは,教育者がこうした出生のパラドックス(過去についての教えに関わる一方で,未来の修復に乗り出すよう動機づける or 人種や民族の違いを包摂する)を引き受ける覚悟を指す。
- 級は能力別編成やメリトクラシーの意味があり,組には学力に関わりなく同じ年齢の子どもが席を同じくする意味がある。
- 公教育は有能性を養うメリトクラティックな学力のみに還元されない教育を引き受けなければならない。そしてそれは,教師個人ではなく制度的・システム的に保証されなければならない。そのためには,教師である前に市民であれる教師教育の構築や,教師のサバティカルによる政治参加があってよい。
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